縦書きか横書きか
面白い記事を見つけました。
雑誌『俳句』平成18年二月号の「「インターネットの功罪」という記事です。
この記事はインターネットは俳句に対しどのような功罪(といいつつ悪いことばかり挙げてあったけど)をもたらしたかという事に関して書いてあって、
その中で目をひいたのは、「横書き俳句は何が問題か」という論題でした。
執筆者の福永さんは、現在のインターネット掲載されている俳句のほとんどが横書きであることを批判し、俳句というのはいかに縦書きが大事だということを指摘していました。
例えばこんな例。
瀧
の
上
に
水
現
れ
て
落
後 ち
籐 に
夜 け
半 り
という詩は横書きにすると
瀧の上に水現れて落ちにけり
「句の力は九割方落ちる」とし「何やらちょろちょろしょぼしょぼ、尿路障害症患者のおしっこのようになってしまったではないか」と評しています。
また、
愛
さ
れ
ず
し
て
沖
の
遠
く
に
藤 泳
田 ぐ
湘 な
子 り
という句は横書きにすると、
愛されずして沖の遠くに泳ぐなり
「大広間の畳の上での水練か身悶えかと思える」と評しています。
う~んどうだろうね。前者は確かにそうかも知れないけど、後者の句は人によっては横書きの方がよいという人がいるんじゃないかな。
ただ少なくとも、既存の俳句の中から横書きになると情緒を損なう句の例を意図的に取りだし、さも俳句全体に悪影響を及ぼすという風に論じるのはせこいなぁと思う。
なんか初めから結論ありきみたいで。
逆に、横書きにすればかえって、面白くなる句もあるんじゃないかな。
残念ながら句に関して守備範囲外の僕は、具体的な例を挙げることは出来ないけど、
短歌だったら、
海知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 寺山修司
これなんかは横書きにする方が詩感が表現できている気がするのは僕だけかな?
「続きを読む」 には、礒部さんとテラーリンさんの話を書いています。
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●富士山の話
ありがたみは昔より薄れ、今は単なる観光スポットの一つになってしまった富士山だけど、
これは、噴火していないことが原因だと思う。
江戸時代に富士山は、浮世絵師によって沢山描かれるのだけど、
これは、宝永大噴火が関係していていると僕は睨んでいる。
ウィキベディアによると、1707年に起きたその噴火は成層圏にまで達したそうな。
富士山は優美な稜線をもっているのだけど、それだけじゃなくいざとなれば、ものすごい大爆発をするんだぜ!!っていう、美と力強さを併せ持つ山だ。
だからこそ、みんな富士山に畏敬の念を向けていたんじゃないかな。
僕には、礒部さんとテラーリンさんという二人の偉大な先輩がいる。
彼らは高く険しい山で、僕はすっかりその雄大さに驚いてしまったけれど、
彼らに出会って4年間が経ち、初めのインパクトは薄れてしまっていた。
ちょうど、新幹線の車両から富士山を眺めるときのような気持ち。
しかし、ある知らせが入った。
山が動き出したとの知らせだ。それも、二人同時に。
とうとう動き出してしまった。二人の煮えたぎるマグマが。
火山は一度活動を始めてしまったら、噴火するまで止まらない。
僕は、宇宙に届く噴煙を今か今かと待ちわびている。
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