正しい想いの葬り方―西条八十「恋の棺」の感想―
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村上春樹への質問サイトに、こういった質問が寄せられているけども
昔、同じように誰も好きになったことが無いという風変わりな女の子に会ったことがある。
その子がどうして僕にそう言ってきたのか真意は判りかねるけど、
ただ一つ言えることは、恋なんてしないに越したことはないし、できるだけ避けるべきだと思う。
成就すればいいが、成就しなかったら最悪だ。
傷つき、錯乱し、相手に自分の情けない部分までさらけだすことになってしまって、好かれるどころかむしろ嫌われていく。
落ちるなんてかわいいもんじゃなく、ドロドロに溶けだしていく感じ。
身の破滅。この世の終わり。
大学生の頃、ある友達の失恋の瞬間に立ち会ったことがあったけれども、そりゃもうひどいだった。
薄暗いカラオケ屋の中で、心を取り乱し、男なのに大いに泣いて、支離滅裂なことを語り出す。
小学校からの幼なじみには悪いけど、それはそれはひどい姿だった。
失恋の瞬間だけは誰にも見られたくないものだなと思った。
僕も今は嫁と結婚し、嫁のおかげで充足して生きてはいるけど、嫁と出会うまではそりゃもう散々な恋愛状況だったように思う。
一年間くらい片思いの人にメールを送り続けたこともあったし、デートした次の日に連絡が取れなくなった女の子もいた。嫌いな部分はすべてと言われて振られたこともあった。
思い出しただけでも辛い、嫌な思い出だ。
でも、今の僕は素敵な恋の終わらせ方を知っている。
それが今日紹介する西条八十の「恋の棺」
恋の棺
語りえぬ二人の恋なれば
われら別るる日にも
絶えて知るひとの無かるべし。
その日、われらは楽しく山にのぼらむ、
晴れたる空のもとに、われらが輝かしき石花石膏の棺は、
逞ましき西班牙(スペイン)生れの經子(へこ)によりてにせはるべし。
われら、山頂の黒き土に巨なる穴をうがち、人知れず恋の棺を埋めむ。
おんみは愛撫の白き鸚鵡(おうむ)を贄(にえ)とせよ、
われは寂しく黙して金雀兒(えにしだ)の花を毟(むし)らむ。
かくて谷々に狭霧たちこめ
夕つづほのかに匂ひそむるころ
われら互に微笑みて山を下らむ。
語りえぬ二人の恋なれば
われらが棺の上に草生ふる日にも
絶えて知るひとの無かるべし。
『美しき鐘』(寳文館 1949年)より引用
※()内は引用者
※字体は新字体に統一
いろいろな詩集を読んだけれども、僕はこの詩が一番好きだ。
恋を埋めるなんてとても辛い出来事のはずなのに、どこか牧歌的でのんびりしている不思議な詩だ。
寒くも暑くもない日、平凡な青空の下、楽しく会話をしながら山を登って、棺を埋めている、そんな光景が目に浮かぶ。
山頂の黒き土と掘り出した大きな穴。
二人の恋が決して楽しいものではなく、もっと辛くて悲しく醜いものだということを暗示している。
でも、埋めてしまえばドロドロとした気持ちはもうおしまい。
きれいな棺と供物に守られ、恋は清く正しく葬られる。
下山する二人はどんな会話をするのだろうか。友人としてもう一度会う約束をするのか、もしくはお互いの健康を祈ってそこで今生の別れとするのか。
でも、恋はすでに葬られた訳なので、会っても会わなくてもいい。気持ちは永遠に固定化され、誰にも知られないままひっそりと棺の中に眠る。
暗くて明るく、悲しくて楽しい失恋の詩。
西条八十の詩はいつもきれいな言葉で溢れている。
青空に、花に、鳥に、月に、星に、そして黄金。
いつだって明るく、屈託が無く、まっすぐでのびやかだ。
そういう作風だからか、あるいは、大正、昭和初期、商業的に成功したほぼ唯一の詩人だからか、俗物的だと批判する人も多い。
けれど僕は、そういう小難しくないところがむしろ好きだ。
誠実で実直で、潔く心に響く。
失恋に限らず、これからも辛いことが起きる。
そんな時に誰にも取り乱す姿を見せることなく、黒き土の大きな穴に、きれいに飾られた棺の中に、正しく想いを葬ることが出来たら。
そう願ってやまない。
そして、カラオケ屋で号泣した彼の恋も、いつか正しく埋葬されることを祈っている。